作曲家列伝 Bomfiglio De Oliveira(ボンフィーリオ・デ・オリベイラ) - Fonfon For Choro Music
Bomfiglio de Oliveira(ボンフィーリオ・デ・オリベイラ)
1891- 1940
国道116号線(通称ドゥットラ街道)は、サンパウロとリオデジャネイロを結ぶ大動脈です。
この国道沿いに建つ、巨大な「聖女アパレシーダ大聖堂」に接して、ガラチンゲッタ(Guaratingueta)という小さな町があります。
ボンフィーリオ(Bomfiglio 又はBonfglio)は、ここで奴隷解放令の2年後に産まれました。
町の名前はインディオのツピーガラニ語で「白鷺」を意味し、生涯、黒人であることを意識し続けた彼には皮肉な名前です。
この町からは他にギターのジレルマンド・ヘイス(Dilermando Reis)も生まれています。
ボンフィーリオは、幼少の頃より天賦の音楽的才能に恵まれ、町のオーケストラの楽団員だった父に伴われトランペットを吹いていました。その後、周辺都市を巡りながら各地のバンドに加わっています。
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1912年、それらの一つであるバッハ・マンサ(Barra Mansa)の楽団で演奏していたとき、パターピオ・シルバの兄弟でギター奏者のラファイエテ・シルバ(Lafaiete Silva)に才能を見出され、リオデジャネイロのオーケストラ"Orquestra do Cinema Ouvidor"に招かれました。
また、リオデジャネイロ音楽学校(Conservatorio Musical do Rio de Janeiro)でも学び、正式なクラシック奏者の免許を取得しています。
ピシンギーニャの父親の経営する安下宿、通称「ペンション・ビアンナ」(Pensao Vianna)に身を寄せ、ピシンギーニャたちと交友を深めたことが、後年、バツータス(Os Batutas オイト・バツータスの前身)や、黒人だけのバンド、コンパーニャ・ネグラ・デ・ヘビスタス(Companhia Negra de Revistas)を結成するきっかけとなりました。
彼の代表曲には、リオの黒人文化を象徴する音楽ジャンル、ハンショ・マルシャ(Rancho-Marcha)の曲が多く残っています。
ハンショ・バンド、アメノ・ヘゼダ(Ameno Reseda)の作曲家兼運営者でもありました。
またブラジル初のフットボールチームの曲「フラメンゴ」(Flamnengo)の作曲者としても名を残しています。
こういった黒人の仲間たちと演奏する傍ら、一方でクラシックの分野でも、リオ交響楽団(Sociedade de Concertos Sinfonicos)のトランペット奏者であり、出身校のリオデジャネイロ音楽学校の教授の職にも就いていました。
因みにリオ交響楽団の設立者はHino a Bandeira Nacional(国旗の歌)で有名なフランシスコ・ブラガ(Francisco Braga)です。
音楽評論家エジガル・デ・アレンカル(Edigar de Alencar 1901-1993)は、「頑固な黒人」(rubro-negro 'da pá virada')と彼を評していますが、この言葉からボンフィーリオの気骨が想像されます。
一方、同時代の音楽家たちからは、ヨーロッパ式クラシックを学んだ数少ないショーロ演奏家の一人として、大きな尊敬を受けていました。
余談ですが、彼の代表曲の一つに"O Bom Filho a Casa Torna"(オ・ボン・フィーリョ・ア・カーザ・トルナ 訳は「良き息子は家に帰る」)があります。これは一種の慣用句で、「昔にいた所や、やっていた事に戻る」というような意味で用いられます。
この妙な曲名を口にして気付いたのですが、彼の名前は曲名前半の「ボン・フィーリョ」と同じじゃありませんか。
ちょっとした洒落なのかもしれませんが、本当のところは分かりません。
参考:Musicos do Brasil
ACARI Records
CHORO MUSIC
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