SEが歴史を捜査したら「本能寺の変」が解けた
株式会社第一情報システムズ 常務取締役 明智 憲三郎
歴史学には全く無縁だった情報システムエンジニアが日本史最大の謎とされる「本能寺の変」の全貌を解明しました。解明された真相は従来の通説をことごとく覆すものです。その内容はプレジデント社より2009年3月に『本能寺の変 四二七年目の真実』と題して出版されていますが、本稿では歴史研究界が長年かかっても解明できなかったことをどうやって情報システムエンジニアがたった1年で解いたのかをご紹介します。
1.「本能寺の変」歴史捜査の経緯
私は工学部出身のエンジニアです。三菱電機(株)に入社したのは1972年。情報システムの構築を担当する部門に配属され、コンピュータの研修を3ヶ月受けて早速システム設計の実務を担当させられました。当時としては大規模な国鉄の貨物操車場の自動化システム「YACS」でした。
これが私のシステムエンジニア(以下SEと略記)としてのスタートでした。以来、一貫して情報システムにかかわる仕事をし、SEとしての技術を磨き、身に付けてきました。情報システムの企画から保守までの全てを経験した後、その実務担当の立場を卒業しても、自分の仕事のスタイルは全てSEとして身に付けたスタイルを通しました。専修大学の魚田先生はSEとは「システム分析、設計、開発して一つのシステムをまとめ上げる人」と定義されていると本会員コラムに静岡大学の市川照久先生が書いておられます(2009.8.25)。正に私はどのような仕事も「分析し、設計・計画し、実行して一つのものをまとめ上げる」やり方を通してきました。
こうして仕事一途に取り組んできた「SE」が7年前、57歳のときに突然「本能寺の変の全貌解明」を自らやらざるを得ないと決意しました。
なぜかというと、「本能寺の変」の歴史研究にはSEから見れば根本的な誤りがあり、真相解明が全く期待できないと思ったからです。「このままでは誤った常識が世の中に益々蔓延してしまう。自分が生きている間に何としても真相を明らかにしたい。これは何年かかるかわからないプロジェクトなので、今始めないともう間に合わない」。そういう危機感が明智光秀子孫の心の臨界点をとうとう越えてしまったということです。
2.「本能寺の変」歴史研究批判
それでは何故、これまでの歴史研究では「本能寺の変」の真相に行き着けなかったのでしょうか。
そこには「本能寺の変」を研究する方々に共通する、根本的な研究姿勢の問題があります。
(1)軍記物容認
一つ目は「軍記物容認」です。
軍記物とは江戸時代に木版印刷されて出版された「戦国物語」です。本能寺の変に関するものとして有名なものは本能寺の変から四十年以上たって出版された『太閤記』や百十年以上もたって出版された『明智軍記』です。
軍記物に書かれた話は『太閤記』を原本とした吉川英治『新書太閤記』や『明智軍記』を原本とした司馬遼太郎『国盗り物語』で世の中に広がり、さらにNHK大河ドラマで日本中の隅々まで知れ渡りました。皆さんがご存知の「本能寺の変」についてのエピソードはどれも軍記物に書かれているものと思って間違いありません。
このような軍記物に初めて書かれた話は史実ではなく作者の創作だとみるべきですが、驚くことに歴史研究者がこれらを史実として扱っているのです。そもそも軍記物は物語です。これは何ページか実際の軍記物を読んでみればたちどころにわかります。工学の分野で研究者がSF小説に書かれている話を事実として論文に使ったら笑い者になりますが、「本能寺の変」研究ではそのようなことが大手を振るってまかり通っているのです。「軍記物に書かれていることを史実と混同するな」という人の方が笑い者にされてしまうような驚くべき状況です。
犯罪捜査でいえば、不確かな証拠や証言をもとにして犯人探しが行われているわけなので真犯人が見つかる可能性は全くありません。真実には決して行き着けないのです。
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(2)武将私人論
二つ目は「武将私人論」です。
歴史を英雄物語としてとらえてきた影響でしょうか。戦国武将を公人ではなく、私人として見ています。
そのため、光秀謀反の動機を光秀個人の感情や性格に求めています。「信長から苛められて怨んだ」という怨恨説や「天下が欲しかった」という野望説に始まり、「保守的な性格なので朝廷に忠義を尽くした」という朝廷黒幕説、「足利幕府再興にロマンを懸けた」という足利将軍黒幕説、「よく理由はわからないが発作的に」といった発作的犯行説まで様々な説が唱えられていますが、いずれも光秀を私人とみて、彼の私情に動機を求めています。
ところが光秀は土岐氏という一族を率いる氏族長として一族郎党の生死にかかわる全責任を負っていました。また、丹波の領主として領民への統治責任もあり、信長政権を支える家臣団の長としての責任も負っていました。つまり、現代でいえば企業の経営者であり、自治体の長であり、政府の要人でもあったのです。これは光秀だけについていえることではなく、信長・秀吉・家康をはじめとする武将全般についていえることです。
正に戦国武将は公人であり、彼らが重要な決断をする場合には公人としての判断があったはずです。特に、失敗すれば一族郎党滅亡する謀反という重大事項です。そういったリスクを犯してでも謀反を起こすのですから、謀反を起こさねば一族郎党滅亡するという危機認識を抱く理由があったはずです。また、謀反を起こす限りは絶対に成功させて政権を取るという施策を立てていたはずです。こういったことは投資効果にもとづく政策決定を日常的に行っている企業人であれば即座に理解できることだと思います。
こういった理解を欠いた武将私人論は、犯罪捜査でいえば犯人の思考の論理を理解せずに推理しているわけですから犯行の動機もプロセスも解明できる可能性は全くないと言えます。
(3)蓋然性欠如
三つ目は「蓋然性欠如」です。
工学の世界では実験で得た大量のデータを分析して答を求めていきます。情報システムの構築においては現状分析を徹底して行って実態を見極めてからシステムの設計にとりかかります。まず、全ての事実の把握を行い、そこから推論を行って、蓋然性の高い答を見出すというのが我々エンジニアの常識です。
ところが、「本能寺の変」研究ではこれがなされていません。わずかな手がかりから安易に答を出してしまっています。たとえば、「イエズス会は信長が邪魔になったので消した」というイエズス会陰謀説や「信長の遺体が見つからなかったのは本能寺の地下にトンネルがあって秀吉がそれを塞いだからだ」という秀吉陰謀説がその最たるものですが、怨恨説、野望説などいずれをとっても同様です。(蛇足ですが現代でも火災現場で遺体が見つかれば必ずDNA鑑定しないと身元を確認できません。それほど損傷が激しいのです。燃えて崩れ落ちた本能寺の焼け跡から信長の死体を特定することなど当時の技術ではできるわけがありません)
答が先にあって、それに合いそうな「史実」をいくつか見繕って説明が付けばよし。しかも、その「史実」なるものが軍記物に書かれたもの、というのですから、犯罪捜査でいえば正にでっち上げの冤罪作りということになります。
3.歴史捜査手法による解明
これに対して私が採用した手法はあらゆる予断を捨て、答を先に作らず、犯罪捜査の如くに証拠に基づいて推理して答を出す手法です。私はこれを「歴史捜査」と命名しましたが、私が普段仕事で行っているSEの仕事のやり方そのものだと思います。そのやり方を以下にご説明します。
(1)徹底した情報集め
まず、最初のステップは「徹底した情報集め」です。
犯罪捜査でいえば証拠・証言集めですが、歴史捜査ではその当時に書かれた史料からの関連記事の収集です。当時の史料としては古文書といわれる書状や触書など、そして古記録といわれる日記や報告書類などです。光秀の書いた書状、公家の書いた日記、イエズス会宣教師の書いた報告書などが残っております。四百年以上も前のことですが、調べてみると意外に多くの史料が現代まで伝わっていることがわかりました。
それらが活字化されて編纂された本が国会図書館で読めたり、インターネット上の古本屋で買うことができます。また、信長の家臣太田牛一の書いた『信長公記』、長宗我部元親の家臣が書いた『元親記』、家康家臣の大久保彦左衛門が書いた『三河物語』など現代語訳されて出版されているものもあります。
こういった本を私の書斎である朝夕の通勤電車の中でキーワード検索していきます。私の捜査に関連するキーワードが出てくる箇所を見つけては付箋を付けていきます。それらを休日に整理して、どの史料の何ページに何が書いてあるかを記録しました。
ジグソーパズルでいえば、全てのピースを集めてきて、表返しにして図柄が見えるように広げた状態にしたということでしょう。
既に「本能寺の変」研究者が踏み荒らし尽くしたといってもよい状況で、今さら新しい証拠が見つかるだろうかと疑問を持ってスタートしたのですが、予想以上にいろいろ出てきました。恐らく、これまでの研究者も見つけていたはずですが、それが通説に合わないという理由で捨てられていたのだと思います。
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(2)情報の洗練と関係付け
二番目のステップは「情報の洗練と関係付け」です。データ・フローの作成といってもよいでしょう。
犯罪捜査でいえば証拠の信憑性評価と証拠間の関連付けです。たとえば、太田牛一という信長側近が書いた『信長公記』の記述はそのまま証拠として採用してよいのかどうかを検討しました。結論は信長や織田家に関する記述は直接取材ができた話なので信憑性が高いが、光秀や家康の行動について書かれた記事は誰かからの伝聞であり、信憑性が落ちるということになりました。そして、その情報を誰から得たのかを検討することにより情報の流れを整理していくことができました。
こうして調べていくと、今まで明らかになっていなかったいくつかの情報の流れが見えてきました。
たとえば光秀が謀反の前日に重臣を集めて謀反の企てを初めて明かした、という通説についてです。このときの重臣の数が五人なのか四人なのかで二つの情報の流れが見えてきます。
軍記物は全て五人と書いています。そのもとになっているのが本能寺の変の四ヵ月後に秀吉がお抱えの作家に書かせた『惟任退治記』という「本能寺の変」の顛末を報告した史料です。そこに、五人の名前が書かれているのです。軍記物の作者は『惟任退治記』を見て五人の名前を書いたわけです。
軍記物が『惟任退治記』から取り入れたのはこれだけではありませんでした。『惟任退治記』には光秀が信長を怨んでいたこと、天下盗りの野望を抱いていたこと、光秀ひとりが密に謀反を企てたことも書かれています。つまり、通説となっている「怨恨説」「野望説」「光秀単独犯行説」はいずれも秀吉が作り出したものだということが、この情報の流れから明らかになりました。
一方、四人と書いているのは太田牛一の『信長公記』とイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『一五八二年日本年報追加』です。『信長公記』とルイス・フロイスの報告書や書簡には同文、ないしは極めて似た記述があることはよく知られていることです。情報の流れとしては信長の身近にいた太田牛一から当時九州にいたフロイスへと情報が流れたとみるべきです。
ところが、フロイスの報告書や書簡が出来事の直後に書かれているのに対して、『信長公記』がまとめられたのははるかに後になってからなので、「フロイスが『信長公記』を読んで書いた」ということはありえません。となると、太田牛一は『信長公記』の原稿を出来事の都度書いて、その情報をその都度フロイスへ渡していたということになります。こうして当時の信長とイエズス会との緊密な関係が見えてきました。
もうひとつの例をご紹介しましょう。
信長が本能寺で光秀謀反と知ったときに言った最期の言葉に関してです。有名なのは「是非に及ばず」です。これは軍記物の創作ではなく、『信長公記』に書かれた言葉です。太田牛一は本能寺を逃れ出た女性から取材してこの記事を書いたと『信長公記』に書いていますので信憑性は極めて高いと判断できます。
ところが、別の言葉を言ったと書いた史料もあります。その一つがアビラ・ヒロンというスペイン人の商人の見聞記『日本王国記』に書かれた「予は自ら死を招いたか」という言葉です。信長の言葉を知りえる立場にない人物の書いたものとして歴史研究者からは無視されてきた記述ですが、データ・フローが確認できました。
アビラ・ヒロンは「何でも噂によると」という前置きを書いています。これは報告者として極めて適切な記述です。ヒロン本人が聞いたわけではなく、そういった噂がヒロンの周辺にあったということです。そのことは事実と見てよいでしょう。誰かが信長の最期の言葉を聞いて語ったことが、ヒロン周辺の人々に伝わったと考えることができます。
それではそのような可能性を持った人物が本当にいたのでしょうか。信長の最期の瞬間に信長の側にいて、さらに本能寺から生き残って脱出し、さらにヒロンに縁のある人々にそのことを伝えられた人物です。信長の小姓はことごとく本能寺で討死したはずですが・・・・
実はその条件を全て備えた人物がたった一人いたのです。その人物は信長の小姓として常に信長の側に付き従っていたことが『信長公記』にも松平家忠という家康の家臣の日記『家忠日記』にも書かれています。名前は彌介と書かれています。そして、フロイスの『一五八二年日本年報追加』には、その彌介が小姓としてはただ一人本能寺から生きて脱出し、二条城で戦った後に降伏し、光秀の命令で京都の教会へ身柄を預けられたことが書かれています。なぜイエズス会の教会へ預けられたかというと、この人物は1年ほど前にイエズス会が連れてきたアフリカ人奴隷だったのです。彼が語った話が宣教師達に広まり、噂となってヒロンの耳まで届いたと考えられます。
このようにして次々とデータ・フローができていきました。ジグソーパズルでいえば、何個かのピースが組み合わさった塊がいくつもできあがっていく感じです。
本稿で強調して申し上げたいのはSEであればこういった情報のつながりを分析していくのが得意だということです。従来の歴史研究にたずさわった方々と比べると決定的に優位な経験と技術を持っているのです。
(3)情報の補強と関連付けの追加
三番目のステップは「情報の補強と関連付けの追加」です。
情報の関連性を調べていくと不足している情報に気が付きます。ジグソーパズルにたとえれば、ある塊のピースが不足していることに気付くのです。こうして再度情報収集に立ち戻った事項がいろいろありました。たとえば、愛宕百韻、土岐氏、服部半蔵、日光東照宮などです。犯罪捜査でいえば裏付けを固めるための追加の証拠・証言集めです。
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(4)全体の構成と設計
四番目のステップは「全体の構成と設計」です。
犯罪捜査でいえば犯行動機と犯行プロセスの全貌を推理して答を見出すことです。歴史捜査では「真実の復元」と名付けましたが、ジグソーパズルでいえば、いくつかのピースの組み合わされた塊を全体枠の適切な位置に順次はめ込んでいき、全体図を完成させる作業です。
この作業をやるためには全体枠の理解が不可欠です。つまり、その当時の状況を理解する必要があります。たとえば、信長に服属した武将の松永久秀や荒木村重は信長に謀反を起こしており、そのことは当時の武将が忠義・報恩ではなく、利害で結ばれていたことを示しています。
信長は秀吉を毛利攻め、柴田勝家を上杉攻めに派遣する一方、武田家を滅ぼして、その領地の甲斐・信濃を息子に与えました。これは信長が近国は織田家で固め、遠国に武将を配置するという政策を進めていたことを示しています。
こういった状況を理解した上で、何が起きていたのかを復元していくのです。
この作業はかなりウンウンうなりながらやることになりました。そう簡単に答は見付かりません。若い頃に没頭して取り組んだデバッグ作業(プログラムの不良箇所を探して見付ける作業)を思い出しました。私は不良箇所(バグ)に理詰めで迫っていくデバッグ作業が推理小説の犯人捜しのようで大好きでした。いくら考えてもわからない、と諦めた答が突然ひらめいて解けたという楽しさを何度も味わいました。人間の脳もバックグラウンド・ジョブが流れていて、突然答が出てくるのだとコンピュータとの類似性に気が付いて妙に感心したことを思い出します。
とはいえ、デバッグは後ろ向きの作業です。デバッグ作業をイヤというほどやらざるを得なかった経験から得られた信念は「絶対にバグのないプログラム/システムを作ろう」ということでした。これが私のSEとして目指した情報システム作りになりました。私自身はその答を見つけたつもりでしたが、それを普及させるのは難しかったと痛感しています。初めに楽をして後で苦労するのはやめたらよいのに、と忠告し続けたのですが。
さて、歴史捜査を行って30年ぶりにデバッグ作業での脳の活動が再現されて、その楽しさを満喫することができました。夜、ベッドの中で眠りかけてウトウトしているとふと閃く。急いで起きて忘れないようにメモを書く。こういったことが何回もありました。
こうして全ての証拠が矛盾無く成立するストーリーが復元できました。ジグソーパズルでいえば、最後のピースがピタッと収まって全体の図柄が完成したということです。この瞬間の感激は忘れることができません。
でも、歴史捜査はこれで終わりではありません。最後の大事なステップが残っています。
(5)結果の検証
最後の五番目のステップは「結果の検証」です。
犯罪捜査でいえば解明した動機とプロセスが本当に正しい答なのか、別の答の可能性はないのかと確認する作業です。
私の復元した真実は正に驚くべきものだったので、他の答の可能性がないのか何度も検証してみました。その結果、やはりこれしかないと納得せざるをえなかったのです。
4.歴史捜査で復元された真実
本稿は歴史捜査の手法をご紹介することによって情報システムエンジニアが「本能寺の変」を解けたことをご説明するのが主旨ですので、解かれた答がどのようなものであったのかをご紹介するのは躊躇するところです。なぜなら、初めからそのような答が用意されていて、それに合う証拠を並べたてただけではないかと、従来の「本能寺の変」研究と同じように見えてしまうことを危惧するからです。
とはいえ、答を示さなければ読者には不消化感が残ると思います。そこで答を簡潔にご説明しますが、それを裏付ける証拠や推理については紙面の制約で説明を省略していることをくれぐれもお忘れにならないでください。
(1)謀反の動機
光秀は謀反の直前に愛宕山で戦勝祈願の連歌の会を催しました。そこで詠まれた連歌が愛宕百韻です。通説では五月二十八日に催され、光秀は発句に「ときは今 あめが下しる 五月かな」と詠んだとされています。この句は「土岐氏である自分が天下を盗る五月になった」という意味で、光秀の天下盗りの野望を現していると解釈されています。戦勝祈願として詠んで愛宕神社に奉納された連歌ですので、これに光秀の謀反の心が詠み込まれていたことは確かです。
ところが、コンピュータの論理性に負けまいとプログラムのロジックを必死に追い続けたSEの論理性からみると、この句は「あり得ない句」なのです。何故ならば、光秀が謀反を起こしたのは六月二日だからです。光秀が天下を盗りたかったのは六月であって五月ではないのです。
この年の五月は二十九日しかありませんので六月とは二日の違いです。だから気にすることはないと四百年間、誰も疑問に思わなかったのでしょうが、プログラムのデバッグに没頭してきたSEからみると、これは100%間違いなくバグです。
この通説となっている句は軍記物がこぞって書いて通説としてしまったものですが、最初に書いたのはやはり秀吉が書かせた『惟任退治記』です。秀吉が意図的に光秀の野望を演出した可能性が高いとみました。調べてみると1文字違いの「ときは今 あめが下なる 五月かな」と書かれた写本が伝わっていることがわかりました。詠んだ日も五月二十四日。二十四日だと六月とはかなり離れています。秀吉が意図的に句の言葉と詠んだ日付を改竄したと推理しました。
SEとしてはこれを確かな証拠によって証明しなければなりません。愛宕百韻に参加した人物が二十八日に別の場所にいたという証拠をつかもうとしたのですがそのような記述はどの史料にも見付かりませんでした。諦めていたらふと思い付きました。「天気だ!」。「あめが下しる」でも「あめが下なる」でも雨が降っている情景を詠んでいます。したがって、「その日は愛宕山に雨が降っていなければならない!」。やはり脳内のバックグラウンド・ジョブが流れていたのです。
調べてみると日記にその日の天気を書いた人物がいました。朝廷の公家(京都在住)、興福寺の僧侶(奈良在住)、松平家の城主(三河在住)です。これらの日記に書かれた天気を調べた結果、二十四日は雨、二十八日は晴れ。つまり、二十四日には「あめが下なる」と詠めたが、二十八日には「あめが下しる」とは詠めなかったのです。これで秀吉が四百年前に改竄して作り出した通説が覆ったわけです。
そうすると「ときは今 あめが下なる 五月かな」という光秀の句にはどのような祈願が込められていたのかということになります。「土岐氏は今、この激しい雨にたたかれているような苦境にある五月である。しかし、月が変わって六月になればこの苦境から脱したい」。これが光秀の祈願であり、謀反の動機です。土岐氏滅亡の危機を光秀は救いたかったのです。
(2)謀反のプロセス
それでは、その危機とは具体的に何だったのか、光秀はどういう成功の目算を立てて謀反に踏み切ったのか、光秀の謀反はどうして簡単に成功したのか、そして最後は失敗に終わったのか。これらの答は長文になってしまいますので拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に譲ることにして、本稿ではこれら全ての鍵を握っていた「信長による家康討ち」についてご説明しておきます。
信長は家康とその重臣二十名ほどを六月二日に本能寺におびき寄せ、一網打尽に光秀の軍勢に討ち取らせる計画を立て、全ての段取りを整えていたのです。ところが、この計画を信長と打ち合わせて熟知していた光秀が千載一遇のチャンスと気付き、信長の段取りした時間よりはるかに早く本能寺へ討ち入って信長を討ってしまったのです。
したがって、光秀は謀反の成功を100%確信して謀反に踏み切れたし、簡単に謀反を成功させられたわけです。そして、信長には「予は自ら死を招いたか」と思わず最期の言葉を漏らさざるを得ない事態が訪れたのです。
5.歴史捜査から得た情報システム化の提案
こうして歴史捜査は思いがけずもわずか1年で終了しました。でも、さらにその先がありました。私の解明した真実を世の中に広めるために本にして出版しなければならなかったのです。これには丸4年もかかってしまいました。SEの仕事柄、仕様書はたくさん書きましたし、構造化した文書の書き方にも精通していたつもりでしたが、世の中に広く読まれる本にするには経験も技術も不足していました。出版社が納得してくれる本にするために「面白く読める本の書き方」を勉強して何度も書き直しました。
仕事でもそうでしたが、今まで経験したことのない新しい世界を知ることは楽しく、ワクワクするものです。特に、自分自身で設定したプロジェクトでしたからなおさらでした。
そういった活動を通じて気付いた情報システム化の提案が二つありますので、それをご紹介して情報システム学会の会員コラムらしく締めくくらせていただきたいと思います。
(1)史料データベースシステム
歴史研究にとって研究に必要な史料を読めるということが必要不可欠な条件です。江戸時代後期から古文書・古記録類の活字化事業が継続して行われてきたお陰で専門家でなくても貴重な史料が読めるようになりました。私の歴史捜査もその膨大な努力の成果がなければできなかったことです。しかしながら、大きな問題が二つあり、研究活動が極めて制限されている状況です。
一つは活字化されている史料の閲覧性が極めて低いということです。電子データ化が進められているとはいえ、その範囲はまだ限られています。頼るのは図書館となりますが、とても閲覧能率が低いです。またインターネット古書店で購入できたとしても費用負担が重いですし、能率が極端に向上するわけでもありません。
もう一つは活字化されて出版されている古文書・古記録はまだほんの一部に過ぎないということです。それでいながら、江戸時代後期から続いてきた活字化・出版活動である「群書類従編纂」の活動は昨年店じまいしてしまいました。まだ活字化されていない貴重な史料が日の目を見ずに消えていってしまう日本史研究上の危機にあるように思います。これは極めて重い問題だと感じます。
筆で書かれた原本を読んで活字にできる専門家が気軽に登録でき、多くの人が効率的に検索・参照できる史料データベースシステムが是非とも必要だと感じます。
(2)書籍販売データベースシステム
自分で本を出版してみて驚いたことがあります。「私の本はどこで何冊売れていますか?」という質問に出版社は答えられないのです。つまりPOSのデータを持っていないのです。これは出版社−流通業者−書店チェーンという三層の業界構造から生じたものと思います。
本の販促には、その本がどの店や地域でどれだけ売れているのか、在庫はどれだけあるのかを知ることが不可欠のはずです。そのデータがあれば販売戦略を立てて宣伝・増刷・配本を出版社が能動的に実施していけるはずです。
ところが、このデータがないために出版社は「返本数の最少化」という守りの戦術しか採れないのです。出版不況といわれる状況はどうやら電子書籍化だけがもたらしたものではないようです。
出版にかかわる全業種・全企業が大同団結して共用の販売データベースシステムを構築するべきではないでしょうか。開発すべき機能は簡単なものだと思います。難しいのはシステムに関連する企業間の利害調整だけです。
6.おわりに
拙著は出版以来、ありがたいことに読者の支持を得て2万部(8刷)販売されました。読者からは期せずして同じ三つのお褒めの言葉をいただいています。「目からウロコが落ちた。歴史観が変わった」「推理小説を読むように面白い。ワクワクして読んだ」「よくここまで調べた。よくここまで突き詰めた」。
そして、「情報システムのエンジニアだからこそできたのだろう」という感想もいただきました。その代表例としての中島情報文化研究所代表の中島洋氏がビジネスプロセス革新協議会メールマガジンに書いた文章をご紹介します。
「この本の記述はシステム的な思考で貫かれている。情報システム分野で鍛えた思考は、歴史に新しい光を当てる可能性があることを提起してくれた。定年でリタイアするシステム技術者もこれからは大量に出てくるが、第二の人生を是非ともこうした新しいジャンルに振り向け、エネルギーを注いでもらいたいものである」
私が歴史捜査という実に楽しい領域を切り開くことができたのは情報システムの仕事で身に付けた技術のおかげです。この仕事にたずさわることができた幸運に感謝しております。これからも、少しでも情報システム界に貢献できるように頑張っていきたいと思います。そして、講演会やブログ「明智憲三郎的世界 天下布文!」で情報発信を継続していきますので、歴史の真実の普及にご支援をよろしくお願いいたします。「目の前には厚く高い壁がある。だから挑戦する」。私にとってSE魂は永遠です。
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