形而上学という語について
第一節 はじめに
先日、細川亮一著『形而上学者ヴィトゲンシュタイン』という著作を読んだ。この書について何か感想を述べてみようと思ったのだが、その前にどうも胸に浮かんできて離れないことがあり、やり過ごすことも出来そうにもない。そこでそれについてまず書き始めてしまうことにした。そうして以下の文章を書いてみたのである。
この『形而上学者ヴィトゲンシュタイン』という本は、その全体を見ればいろいろ面白く読まれるものである。そもそも私は反哲学だとか、反形而上学という立場からなされる主張に理解も共感も抱いていない。ヴィトゲンシュタインの哲学が、もしそのような性格の議論であることが真実であるならば、おそらく何ほどの意義も興味も、私は認めることが出来ないであろう。
哲学というものがその哲学的な視野に収める事柄というものがあり、それらはいかなる時代の哲学であるといえども、意義ある哲学であるならばかならずその哲学的省察の契機であり、対象であり、また時には主題そのものとなることを、外見上の相違を越えて共有している。
それゆえヴィトゲンシュタインの議論に、哲学的考察に通底する哲学的事柄への関連を見いだし、その方向から理解していこうと試みる、この『形而上学者ヴィトゲンシュタイン』という著作を、私は深い同意をもって歓迎したい。また実際、そのことについて著者の細川亮一が教示するところは、大変興味深いものであると私には感ぜられた。
しかし、形而上学者としてヴィトゲンシュタインを性格づけることを基本的視点とするこの著作において、形而上学とは何か、その意味内容は何かについて、著者が提示する性格付けは、どれも妥当なものと感ぜられない。このことについては不満足を覚えるし、いくらか批判的な感想が私には抱かれたのである。そこで、この点について私の意見を以下で述べてみようと思う。
第二節 形而上学の三つの意味
まず冒頭で著者は、次の三つの意味を形而上学という語の意味として確認する。
1 プラトンから始まりニーチェ(あるいはヘーゲル)において完成する形而上学
2 科学時代以前の古い哲学としての形而上学
3 言語の論理を誤解することから生まれた形而上学
この第三の意味は、形而上学の語の用法としては、まったく特別のものである。ここで著者は、フレーゲ、ラッセルの哲学理解と、言語論的転回以降に発展した哲学的議論に対置されるものを念頭に浮かべているのであろう。今、通常の用法からすれば不正確な用い方かもしれないが、彼らを言語論主義の立場と表現することにすれば、この言語論主義の方法に従わない哲学的方法によっては、有意味な問題記述がなされていないと、言語論的反省に立たない哲学全般を否定的に評価する考え方が表されているに過ぎない。ここで形而上学の語は、この語によって無意味な思弁的論述を指示するときの一般用法になぞらえられて用いられているのである。これに就いての著者の論述もまた、フレーゲ、ラッセルには、ヴィトゲンシ� �タインの『論考』の主張が受け入れられなかったということを確認するにとどまっている。従って、著者の挙げるこの第三の用法については、形而上学という語の意味内容を確認するために留意すべきものは含意されていない。
第二の意味については、著者の関連する論述箇所からすれば、科学時代の哲学としてヴィトゲンシュタインの哲学を理解しようとする立場を批判するために提出されたものと読まざるを得ないものである。自然科学的思惟を実証主義として、宗教・形而上学・科学という歴史的発展の図式に載せて理解するコントの発言に言及しているが、それに対立する形而上学が、ではどんな思惟性格をもつものなのであるかは、この冒頭の概要的序章では記述されない。
第一章第三節でふたたびこれに関連する話題を詳述するときも、ヴィトゲンシュタインの論理実証主義に対する関係を考察することが、特に目に付くところである。そして科学的世界把握と異なって『論考』のヴィトゲンシュタインが提示しようとするものが何であるかが確認される。しかし形而上学が何を提示するのかは、科学とは違うものだという以上には、ハイデガー、ショーペンハウエル、そして倫理学という視点から以外から語られない。しかしこれらの視点は、そのままで形而上学について語るものではない。
私は今のところこの文章において、著者のヴィトゲンシュタイン理解について踏み込んで検討するつもりはないのであるが、少し関連するところがあると思われるので、次のことは指摘しておきたい。それは、ハイデガーの『形而上学とは何か』という著作に、ヴィトゲンシュタインが理解と共感を表明した発言に、著者がこの箇所のみならず著書の各所で繰り返し言及するということについてである。ここではハイデガーの言う形而上学が、オーソドックスに理解されるものであるのか、また特別固有の理解がなされるものであるのかという問題が指摘されねばならない。もちろん著者である細川亮一には筑摩新書に『ハイデガー』という著作があり、この点につき著者の立場を確立しているのであろう。しかし現存在分析によ� �て展開されるハイデガー存在論が、ハイデガー自身によっても革新的性格を主張されるものであることからすれば、多分に顧慮しなければならない余地を有しているのである。ヴィトゲンシュタインによる理解と共感の表明についてみても、その意味するところを哲学としての共通性とみるか、哲学的動機における共感であるのか、主題の相似性という点で理解するのか、さまざまな検討の必要があり、この発言からだけでヴィトゲンシュタインの哲学が形而上学的であると主張することは、説得性の欠けるものであり、不十分であろう。
第三節 プラトン以来という表現の問題点
そして第一の意味として提出される「プラトンから始まりニーチェ(あるいはヘーゲル)において完成する形而上学」であるが、これが世間の用法の再確認にすぎないとしても、この言葉遣いは杜撰と無知のそしりを免れることの出来ないものである。もしこのような言葉遣いが、自己の主張を述べる論述に実質的なものとして用いられるとしたら、私はそのような書き手を稚拙と笑うであろう。そこには哲学の辿ってきた実際上の経緯に関する無知があり、また実質的には十九世紀後半の思想に対する批判に過ぎないのに、あたかも先行する人類思想史全体に対する革新であると主張する現代思想の、肥大した歴史意識にどっぷりと浸かり込んだ無自覚がある。以下、形而上学という語が表してきたもの、あるいはその意味する� �ころのものを述べてみたい。この検討を通じて、私の批判的なまなざしの根拠の一端もまた示されることであろう。
形而上学の語の第一の意味を述べる、「プラトンから始まりニーチェ(あるいはヘーゲル)において完成する形而上学」という言葉遣いがはらんでいる問題、このことは形而上学という語がプラトン自身によっては用いられることがなく、彼の弟子アリストテレスの著書の題名に由来するということを思い起こすだけで十分意識上に喚起されてくるのであるが、さらにプラトンからニーチェまで一連なりの哲学史的発展というものが存在しているかのように考えている点でも意識されてくるものである。以下この哲学史的想定がはらむ問題について述べてみよう。
私は、まず第一に、哲学の辿ってきた実際上の経緯に関する無知がそこにはあると書いた。そのとき私の批判の念頭にあるのは、ギリシャに出現した哲学というものが、一直線の思想史的展開を辿って行きついた結果として西ヨーロッパの哲学的言論があるというわけではない、という事実である。この点については、我々は西ヨーロッパ人によって構成された哲学史的整理を、無批判に受け入れてきている嫌いがあるため、なかなか留意することが出来ない。そのために「プラトン以来」だとか、「古代ギリシャ哲学以来」という形容詞が実質的な意味を帯びているかのように思いこんでしまうのである。だがこんな形容表現は、ほとんど「物語り的」虚構にもとづくのであり、我々の日本語における「神武以来」という言葉と� �様、実質的内容に貧しいものなのである。哲学の辿った歴史的経緯を、多少とも西ヨーロッパ的な整理に捕らわれずに概観するならば、次のような諸事情を顧慮して行かなければならないであろう。
第四節 古代ギリシャ哲学の推移
まず古代ギリシャ哲学について押さえておかねばならない事実は、列挙していくならば次のようになる。そもそも「ピロソピアー(哲学)」という言葉はプラトン、イソクラテスによって初めて盛んにギリシャ語として用いられた。(このときイソクラテスの提唱した哲学理念は、その実践的内容からすれば修辞学と呼ばれるものであり、そのことからローマ世界においても理解されやすく、ある種の教養理念として展開されていった。それ故ラテン語文化圏の後裔である西ヨーロッパにも引き継がれていった。一方、)プラトンの提唱した哲学理念は、彼の生涯の同時代、あるいはほとんど直後から、ギリシャ哲学の多様な展開の中に巻き込まれていく。しかもこの哲学史的展開の中で、プラトンの思い描いたものが特に有力な� �のとして位置づけられていたわけではない。プラトンの学園アカデメイアですら、彼の死後ただちに懐疑的傾向を強めた思想を唱道し、ヘレニズム時代を通じてアカデメイア懐疑派として知られていく。彼の弟子であるアリストテレスは、プラトン死後アカデメイアを離れ、自ら学園リュケイオンを主宰して、独自の道を歩んでいく。
これ以降の古代ギリシャの哲学史を、順序よく書くのは手間がかかるので、思いつくまま他の主要な哲学を挙げれば、エピクロスや原子論主義哲学、エピクテトスなどのストア主義、ピュロンに始まる懐疑主義がある。これらの諸哲学は、ヘレニズム世界において、プラトン、アリストテレスに決して劣らぬ勢力を保ち続けるし、また一般にも関心を払われていた。たとえばエピクロスについてみれば、紀元前一世紀にキケロによって「ローマ人のエピクロスの徒たちは、彼らの書き物によって、イタリア全土を占有してしまった。」と述べられている。またトルコ内陸にあるオエノアンダという地では、二世紀頃にディオゲネスという名の老人が、彼の同郷人ならびに多くの人々の幸福を願って、エピクロスの教説の概要を刻ん� �石碑を作成し、都市の広場に設置しているのである。
しかしこれらの諸々の哲学的活動も成果も、古代地中海世界の文化的変動、西ヨーロッパ人の言う「ローマ帝国の崩壊と没落」の中でほとんど四散していってしまった。プラトンやアリストテレスを含めた一部の哲学者の著作が、幸運にも後世に伝えられたのに対して、そのほかの多数の哲学者たちの著作の多くは、不運にもその全貌を窺える状態で残されなかったのである。この資料の不足もあって彼らへの関心の不十分と評価の低下を、長期に渡って西ヨーロッパの人々に引き起こした。そのために古代ギリシャ哲学のヘレニズム世界も視野に治めた広範な理解に、一定の偏向が生じてしまったのである。ただし近年の欧米の研究は、これらの領域への関心を払い、ヘレニズム哲学の評価はあらたまり、理解と知識も深まりつ� �ある。この点について私は、欧米学者に我々が見習わねばならないと言うにためらわない。
何故ギリシア人は、アメリカに来た
とはいえ、失われてしまったものはあまりにも大きい。ヘレニズム世界の哲学的活動が実現していた多様性の全貌は、どんな研究によって詳細が探求されようとも、もはや僅かにうかがい知れるに過ぎないのである。このことは忘れてはならない。古代ギリシャは失われ、消え去り、そして二度と復活することのない、歴史的断絶の彼方にあるのである。一面からすれば、ローマ帝国の衰退と呼ばれ、また一面からすれば、帝国領各地の自律的歴史の結果である、古代地中海世界の政治的、文化的変動において、古代ギリシャ・ヘレニズム文化もまた変貌していく。この変動の際、哲学という高度な知的背景を必要とする活動が身を寄せた場所は、西ヨーロッパではない。西ヨーロッパは未だ後進的地域に過ぎず、この地の人々が� �想・文化において独自的活動を始めて、哲学に関してもそれなりに評価できる存在となるのは彼らの年代で言う十二世紀であって、それまではまだ数百年の長い年月をまたねばならなかった。
さて、これまで長く述べてきたことは、哲学というものが、どんな歴史的経緯を辿るかを理解するときに、踏まえねばならない第一の事情である。すなわち古代ギリシャ哲学の活動は、プラトン・アリストテレス以外にも多種多様な哲学的営為を営んでいたのであり、しかもこの多様な活動を、ギリシャ哲学の末裔と自ら位置づけ、かつそのように他の人々にも向かって自称するところの西ヨーロッパの人々は、ほとんど受け取ることはなかったのである。それは今日のみならず、西ヨーロッパにおける哲学的関心がそれなりの形をなす十二世紀においても変わらない。最初の出発点となった、「プラトンから始まりニーチェ(あるいはヘーゲル)において完成する形而上学」という表現に関連するところで言えば、まだ十二世紀� �はプラトンの著作は、一、二のものしか西ヨーロッパの学者共通語であるラテン語に訳されておらず、その著作すべてがラテン語訳されるのは、十五世紀になってからなのである。それまで西ヨーロッパでは、プラトン哲学は、すくなくとも彼の諸対話篇に基づいて理解されることはほとんどなかったのである。もしプラトンに始まる形而上学形成の運動があるというのならば、西ヨーロッパの人々がこの動きに真に参加できるようになるのは、十五世紀からであるということになろう。もちろん言うまでもないが、そんな形而上学形成の運動などは存在しないし、それはまた十五世紀以来の西ヨーロッパの哲学の発展に目を移してみても、十五世紀以来の哲学史をニーチェ、ヘーゲルに至る一連なりの展開があるとする見方が、あまりに も単純すぎて、その間に出現する様々な哲学的議論の思想的性格の差異と固有の意義を正しく評価させないものであることからして、形而上学形成の流れという存在など顧みるべきものを持たない想定であることは歴然としているであろう。
第五節 イスラム哲学の哲学史的重要性
哲学がどんな歴史的経緯を辿ったのか理解するときに、踏まえておかねばならない第二の点を、以下簡単に述べよう。
プラトンに始まり、古代ギリシャ・ヘレニズム世界に多種多様な展開をしたが、その大半を歴史のうねりによって時の波の彼方に奪い去られてしまった哲学が、なお今日においても幾ばくか貴重な遺物を存留させている経緯を考えるとき、イスラム哲学と呼ばれる思想展開を無視するわけにはいかない。いや、無視するわけにはいかないという表現では、イスラム哲学の哲学史上の意義を言い表すには不十分過ぎるであろう。彼らの活動は、哲学が各時代に渡って紡ぎあわせ、縒りあわせ、そして織り上げた哲学の歴史織物の中に、燦然とその煌びやかな模様をもって大きな場所を占めている。しかもそこに描かれている図柄は、彼らにつづく哲学史の織物の絵柄を支配する主要なモチーフとなって決定的な影響をとどめていくの� �ある。すなわち西ヨーロッパの哲学は、その初期の活動をイスラム世界における哲学研究に深く依存し、それらを受容することによって成立したのである。
この依存の程度をどれだけのものかと評価する場合、十五世紀以降の独自性ある西ヨーロッパの哲学的発展の芽となるものが、この初期の時期に既に存在していることからすれば、あまり高めに見積もるわけにはいかない。しかし冷静な評価を下したとしても、イスラムでの哲学研究の傾向と諸問題を、中世西ヨーロッパにおける哲学研究はそのまま引き継いでいるのであり、もしこのイスラム哲学を受容しないでいたならば、西ヨーロッパの哲学研究の初期の形態、それのみならずそれ以降の西欧哲学全体は、まったく別様のものになったであろう。
アリストテレス研究を、しかも新プラトン主義的解釈を若干織り交ぜたものを、哲学研究の中心に据えたという選択は、西ヨーロッパの学問および諸思想に決定的な影響をおよぼした。 哲学と言えばアリストテレスのことを指すようになることも(大文字で Philosophos と書かれたならばアリストテレスのことであった)、彼の論理学の著作(範疇論、命題論、分析論前書、後書、トビカ)をオルガノンと名づけて、(この名称そのものはヘレニズム期の新プラトン派註釈家に始まるようであるが、)哲学的教養を形作る際の基礎訓練的な位置づけをすることも、イスラム哲学の圧倒的な影響によるものである。このアリストテレスの位置づけは、まぎれもなく、イスラム哲学における哲学研究の関心の傾向を引き継いだものに他ならない。
イスラム哲学史をここで詳述する用意も知識もいまの私は持たないが、いつかこのホームページにそれを解説する記事を載せたい。今はせめて入手しやすい参考書を挙げておこう。ひとつは井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫)であり、これはよく知られた名著である。それから最近ちくま学芸文庫に文庫化されたオリヴァー・リーマン『イスラム哲学への扉』である。これは哲学史というよりは、イスラム哲学者の論じた主要な問題の比較を通じた思想的研究を主な内容としているが、日本語で読めるものとしては類書のない充実したものである。たとえ西洋哲学の特定の傾向、近代哲学のデカルトやカント、あるいはフランス流の現代思想に興味を感じて哲学を学ぶものであっても、どうかこれらを読んで得られる知識� �、自分の関心あるものを理解吸収するときの背景のひとつに持っていてもらいたい。ましてや「プラトンに始まる伝統」だとか、「古代ギリシャ以来」といった大がかりな哲学史的意義を強調したいときには、そのプラトンに始まる哲学が辿る歴史的経緯として、明確に留意しておかねばならないのが、イスラムにおける哲学研究なのである。
西ヨーロッパの哲学は、十二世紀にイスラム圏、特に現在のスペインから移植されたものを母胎にしている。このイスラム哲学を介在しているという点こそ、我々が哲学史の流れを見渡すときに、留意しなければならない第二の点である。そしてこのとき介在されて西ヨーロッパに伝えられた哲学は、プラトンのものではなく、アリストテレスのものであったことも銘記されておかねばならない。そしてこの推移に対して、プラトンに始まる形而上学形成の運動を持ち込むことなど、まったく的はずれな枠組みを当てはめることでしかないのは言うを待たないであろう。
第六節 イスラム哲学に関心を寄せた理由
ラテン語文化圏に属していた西ヨーロッパが、(ここでラテン語文化圏と言うとき、それは西ヨーロッパの各部族が、政治、文化、思想上の指導と整備をラテン・キリスト教徒に託したということを考えている。)ヘレニズム文化圏に比して質的にも量的にも限定されたものであったにせよ、キケロやセネカなどのローマ帝国期のラテン語哲学文献をいくらか伝え持っていたにもかかわらず、イスラム哲学の流入によって始めて飛躍的に哲学に対する関心と評価を与えるようになったのはどうしてだろうか。
第一の理由は、最も単純なものであるが、西ヨーロッパの知的、文化的成熟がようやくそのような段階に差し掛かったと言うことであろう。シャルルマーニュ大帝の時、アルクインの指導のもとで各地に設立された学芸施設の効果が実を結び始めたということでもあろう。パリ大学の隆盛も、この前史を踏まえてこそ実現したに違いない。
第二には、ストア派やエピクロス派の哲学が、決定的にキリスト教の教義内容と抵触するものであったことから、あくまで異教徒的思想として受け止められていたことが考えられる。エピクロスなどは、キリスト教徒による排斥的評価を受けたために、西ヨーロッパの言葉で「エピキュリアン」と言えば、不道徳で、度の過ぎた享楽主義者のことを指す悪名になってしまったぐらいである。西ヨーロッパで後世付加されたこのような意味は、エピクロス哲学の教えるところとはまったく関係ない。だがキリスト教徒の教理的悪意とは十分に関係しているものであろう。そしてまた西ヨーロッパが自称していることに反して、キリスト教の影響下にあった西ヨーロッパがギリシャ哲学への接触と受容についていかに狭隘で、好意の無� �ったものであるかを示しているのである。
では第三に、このような事情であったのにもかかわらずイスラム哲学を歓迎した理由はなんであったろうか。まずは当時の西ヨーロッパに比して圧倒的な高水準にあった、イスラム文化における自然学、医学、数学、論理学を歓迎して、それらに関心を払い、すでにつぎつぎと受容していたという文化的趨勢の流れにあわさっていたと言うことが出来よう。そして哲学に関しても、アル・ファラービー以来の、イスラム逍遙学派の王者イブン・スィーナー(アヴィケンナ)、そして註釈家イブン・ルシド(アヴェロエス)といったイスラム哲学者による精緻を極めた、体系的アリストテレス解釈の完成度の高さが、当然挙げられるであろう。しかしイスラム哲学というものが、その思想内容として、キリスト教と同じく唯一神をも� �て構成されたイスラム教の神学と調和的態度をもって構築されたものであったということが、大きな理由であるに違いない。中世西ヨーロッパの哲学史に特徴的である、神学と哲学との総合的一体化と、そこに内在する相克的緊張関係という哲学研究の姿もまた、イスラム哲学受容による結果であり、それをキリスト教において再現したものなのである。
とにかく、かくしてギリシャ哲学は、と言ってもアリストテレスの哲学であるが、ようやく西ヨーロッパに到来したのである。
形而上学という語の意味を考えようというのに、ながながと哲学の歴史について述べてきたのは、プラトン以来だとか、古代ギリシャ以来という表現がなされるときに、十分配慮して用いなければならないことを明らかにしておきたかったこともあるが、それと同時に、西ヨーロッパが哲学を限定された内容で吸収していたという事情を指摘しておきたかったからでもある。西ヨーロッパの哲学は、古代ギリシャからただちに到来したのでなく、古代ギリシャ文化の消失から数百年を隔てて、しかもイスラム文化圏における再構築という回り道を経て、後進的で、しかもギリシャともイスラムとも異質の文化に、高度な知的構築物のひとつとして、そしてまた西ヨーロッパの思想状況に適合したものとして外来的に受容されたもの� �のである。
第七節 補説 西欧史に古代ギリシャ史を引き込む歴史的虚構性
これまで述べてきたことと関連するので、以下に余部福三『イスラーム全史』という歴史書からの引用を掲載したい。これはイスラームの歴史を理解するときに、西欧史によって構築された世界像に捕らわれないようにする配慮のために、歴史世界像の概観を描き直そうする冒頭の章からである。この再描には、古代ギリシャが西欧の歴史世界の一部に引き込まれたことについて反省している箇所がある。これは西欧哲学史の中に、同質的かつ同系統の前史をなす一部として古代ギリシャ哲学を取り込む哲学史像を、これまで私が批判してきたことを補足してくれるであろう。
フリーメーソンの"g"は何を表しません。
「◆近代西欧人の自己認識(「第二節 ギリシャは西欧か」より) 問題は西欧人が描いた世界像である。フランス、ドイツ、イギリスは、かなり最近までは湿潤と寒冷という気候風土に特徴づけられた「森と泉と狼の国」にすぎず、文明からかけ離れたところにあった。西欧は十一世紀以降に本格化する土地の開墾、農業生産の拡大、人口の増加、都市の勃興を受けて、主としてアラビア語からのラテン語訳を通じてイスラーム文化を学んだ。古代のギリシャ、ヘレニズムの文化を知ったのも、ギリシャ語文献のアラビア語訳を通じてのことである。
西欧人にとって、ギリシャはまったくの異郷にすぎなかった。それゆえ、第四回十字軍はコンスタンティノポリスを攻略して、東ローマ帝国を滅ぼし、西欧人のラテン帝国を建国したのである。十四世紀以降イスラームのオスマン帝国がギリシャを支配下におき、多くのギリシャ人がイスラームを受け入れると、この異郷観はますます強化された。
しかるに、十九世紀前半の西欧のブルジョワ階級は、封建制打破、経済の自由主義、君主専制の打倒と民主政治の確立を唱えて、自由と平等をスローガンに掲げ、古代のアテネにその理想像を見いだした。そのため、ギリシャを強引に西欧に引き込み、西欧史をギリシャから説き起こすようになった(それ以前はローマ史から)。そして、ギリシャに自らの理想を投影し、その文化と社会を極度に理想化し、ギリシャ以東の諸地域をオリエントとして一括し、ギリシャとオリエントの違いをことさら強調するようになった。その結果、西欧(注 古代ギリシャ文化を包摂して構築された新しい西欧概念)は古代から文化と社会が非常に優れた先進国であり、それに対して非西欧のアジアは東洋的専制に特徴づけられた不自由で停滞� �な社会であり、それは一応高度ではあるが、個性と独創性に欠けた文化しか持たない地域であるという、二項対立的な把握が一般化した。しかし古代のギリシャ、ローマと五世紀から十五世紀にかけての非常に後進的な西欧を連続させることが出来ず、後者を暗黒の中世として位置づけ、その間の断絶を認める理論的矛盾を犯さざるを得なくなった。中世という概念もまた、十九世紀にギゾーやミシュレによって一般化したのである。」[余部福三「イスラーム全史」六頁]
ここで、私の文章のこれまでの主題と関連するものではないことを、少し書いておきたい。思想史上の理解では、この暗黒の中世という概念は、理性の光に人間の指導を委ねた啓蒙期以降の合理主義との対比で理解されることがある。暗黒の中世という理解像から抜け出るためには、つまりこの対比を生み出す問題意識を克服するには、例えばそのひとつに、何らかの意味での合理性を中世哲学の諸成果の中に見いだそうということがなされたものである。しかしそれでは、この問題意識を克服したのではなく、かえって別の形でその問題意識にからめ取られていると言わねばならないであろう。
私はここに歴史主義的記述の悪く言えば罠、よく言ってみても限界のごときものを感じざるを得ない。歴史的な順序と分類の基準となるものを、ここでとりあえず歴史的価値ということにすれば、歴史的枠組みをともなって構築された問題意識は、常にこの歴史的価値の実現や失敗を批評する形で解決を求めることになるであろう。だがそこには、その歴史的価値そのものの可否についての反省があるであろうか。それは存在し得ない。なぜなら、そんなことをしてしまったら、問題設定そのものが揺るぎ始めるからである。とすれば、自己の問題意識を形成するときに持ち込んだ価値基準そのものを反省することの出来ない議論というものは、限界のある議論であると言わねばならない。そして思想史上に出現する各種のそうし� �議論もまた、そのような評価をもって受け止めるべきである。すなわち啓蒙期のものも、モダニスムのものも、またポストモダニスムのものも、先行する時代への批判とその克服とを歴史的記述をもって主張するのであるが、その主張に何か普遍的な価値の積極的な意義付けが実現されているわけではない。そこにはただ自己の時代が、他の時代と異なったものであると位置づけられているだけなのである。そしてそれらとは別に、その議論の枠組みをもたらす価値そのものの真価と意義を見極める眼というものが、しかも歴史的に説明されるものとしてでなく見いだすことの出来る眼が、ともなっていなければならない。
さらにまたひとつ。暗黒の中世という表現が無批判に使用できたのは、もう一昔前のころのことである。今の若い人が眼にすることはほとんどないであろう。だがこのような視点が実質的に払拭されているのかと言えば、例えば私がこれまで話題にしている哲学史理解において、古代ギリシャ以来だとか、プラトン以来の伝統という表現を、西ヨーロッパの哲学的所産に関して用いるとき、なんの不自然も感じないという実態からして、おおいに疑問が付されねばならないのである。そのとき、この引用で暗黒の中世という概念が、古代ギリシャを西ヨーロッパの歴史に帰属させたために生じてきた理論的矛盾を覆い隠すためのものであったという指摘は注目されねばならない。十二世紀から十五世紀の西ヨーロッパの哲学を考え� �とき、そしてまたそれを踏み台にした飛躍をなして形成されていく十六世紀以降の西ヨーロッパの哲学の全体を考えるとき、古代ギリシャ・ヘレニズムの哲学をつなぎ合わせようとすると、その性格を把握する際に困難が発生し、実態とかけ離れた性格付けをする以外にはその困難を回避することができなくなる。つまり一言で言えば、見誤るのである。私は西ヨーロッパの哲学的営みとその所産とに関して、その意義と価値を疑うものではない。そこには我々が学び取るに値するものが数多くある。しかし彼らのギリシャ哲学以来という自己理解像に取り込まれすぎると、あやまった哲学史に引き込まれ、そうなってしまうと哲学そのものの理解すら混乱に陥ることになるのである。
またギリシャの歴史・文化史的位置づけについて、この著者の与えるところの位置づけを説明する一文も引用しておこう。
「ギリシャをアジアから切り離し、アジアとまったく異質なものとすることはきわめて恣意的である。そもそも、この地域は温暖と乾燥、冬雨、明るい太陽、紺碧の地中海に特徴づけられた地中海性気候と地中海式農業を持った、類似性の高い地域なのである。よって、これをあわせて東方・地中海文化圏と呼んでよいであろう。東方・地中海文化圏とは、ひとつの統一的な体系を持つ文化圏ではなく、さまざまな独立した諸文化からなるが、それらが互いに交渉し影響しあい、ときに政治的に統合され、互いに深く他の存在を意識せざるを得なくなった諸文化の複合体である。」[余部福三「イスラーム全史」八頁]
第八節
まず私は、再び、西ヨーロッパの哲学史を、とくに二十世紀前後の西ヨーロッパの哲学的所産を理解するときに、プラトン以来の一連なりの展開であるとか、古代ギリシャ以来の系譜などというものを持ち込むことが、実際上は、つまり個別的事象について詳細に考える際になんの意味もない想定であることを指摘しておきたい。意味がないどころか、この粗略な略図に従って哲学史の起伏ある山脈に足を踏み入れるならば、ただちに自分のいる場所も、目指す場所の方向も見つけだすことが出来ないことに気づくことになるであろう。芙蓉の山を中央に描いて、西方に須弥山を聳えさせて、そこへ山並みが一連なりに繋がっていくように描かれた山岳地図を手にして、誰が日本の山々をただしく歩くことができようか。正しく歩� �たいと望む登山者が必要とするのは、日本の山々をありのままに描いた地図、しかも目指す山を中心にして、その近隣を収めた範囲のものであればよいのである。ましてや異郷や理想郷の山々と脈絡づけられてある地図などは、誰も用いようとはしないであろう。今もしそのような地図をまじめで真剣な意図を持って出版するならば、誰だってその地形認識の正確性を疑うだろうし、それどころか判断力の正常性すら疑問にされ、執筆者も版元も正当な判断力を持っていないと判断されるにちがいない。しかし残念なことに哲学史の地図に関しては、荒唐無稽で、空想的な配置と図柄で描かれたほうが喜ばれている。しかもその地図による空想的哲学史世界への夢想的旅行が、そのまま哲学的思惟であるかのように思いこんでいる人々すら いるのである。どうかせめて、プラトン以前の本来の哲学的思惟だとか、存在の忘却だとか、イデアや理性に支配されてしまった哲学史からの脱却だとか、そんなキャッチフレーズを打ち上げて人を引き寄せ、なにかすばらしい新世界へ案内してくれるかも知れないと期待させる、そんな哲学史的空想旅行に幻惑されないようにしていただきたい。
ギリシャ・ローマが展開した地中海文化に比すれば、後進的で未開の部族が、数百年の社会的、政治的成長を経て、ようやく先進文化を吸収するまでの文化的成熟段階に到達したときに、彼らの可能な範囲で受容した諸学術のひとつが、西ヨーロッパの哲学の母胎であり、それが後々の彼らの哲学的発展の基盤となったものである。しかもそのように哲学受容が可能となった段階に到達したとき、もはやローマ帝国もヘレニズム文化も歴史の彼方に消え去って七、八百年が過ぎており、彼らに替わって盛んな文化的展開を実現していたのはイスラーム帝国であった。そして西ヨーロッパが学んだ哲学とは、かってのヘレニズムの地であったシリアやエジプトに存留していた人々によって、文字通り古代ギリシャ以来の哲学的関心の� �と営まれていた哲学的実践を引き継ぎ、イスラーム神学との特有な関係のもとで展開されたイスラーム逍遙学派によるアリストテレス研究であった。
私はここで、彼らの可能な範囲で受容した諸学術のひとつという点を強調しておきたい。このことについては、西ヨーロッパの以後の世代が、深い理解と広範な知識を実現し、さらには独自の哲学的議論の飛躍的な形成を行ったために、いささかぼやけていってしまうところである。このことをぼやかさないように努めて、後進的文化が外来の高度な知的精神的所産を受容したという実態を、常に念頭に思い浮かべていてほしい。そして我々日本人が大和王朝時代に仏法を学んだり、幕末明治に西洋の文物を吸収したときを思い起こすならば、そこで生じた諸々のことを良く予想できるであろう。
ここである固有の背景を持った文化が、その文化においてもともとは知識も概念も持たなかった事柄を言い表す言葉を、異なった性格を持った他の文化圏から新しく学んだときに起こる事態を、我々日本における例にもとづいて、想定していただきたい。しかも私はここで、この新しい言葉とは哲学の言葉のことを考えている。このような想定を西ヨーロッパの哲学に持ち込むことに困難を多くの人が感ずることであろう。しかし私はその困難を減ずるために、これまで哲学の辿ってきた経緯をいくらか長々と述べてきたのである。もう一度くり返すが、いや必要とあれば私は何度でも繰り返すが、十二世紀前後になって、ようやく文化的な目鼻立ちのはっきりし始めた西ヨーロッパは、隣接する先進的文化であるイスラームから� �アリストテレスの体系的解釈を中心とする哲学を初めて学んだ。そしてここに先に要請した想定を持ち込んでもらいたい。すなわち、それまで西ヨーロッパの文化においては、このアリストテレス哲学が話題とするような事柄については、ほとんど知識も概念も持たないでいたのである。
では、このような状況で、事態はどんな風になるであろう。イスラーム逍遙学派による体系的なアリストテレス解釈、そこに用いられる精緻な用語法に実例を示された哲学の言葉は、未知の知識体系として哲学を吸収した西ヨーロッパにおいて一体どんな運命を辿ることになるであろう。この運命、すなわちアリストテレス的術語によって構成された哲学の言葉の運命こそ、それ以降の西ヨーロッパ哲学史における様々な出来事にとって、常に介入してくる因縁となるのである。その出来事のすべてをここで述べていく用意はない。だが、この文章の本来の話題に関わるところで、次のことを指摘しておこう。
cssのメリマックの他の名前は何だった
アリストテレス哲学を学ぶことで吸収された哲学の言葉は、我々日本において、幕末から明治初頭に哲学的用語の翻訳に勉めた西周によって構成された新訳語の大半が日本語に取り込まれ、現在に至っても日本語による思想的表現がそれらを使用して紡ぎ出されるようになるように、同じく現代に至るまでの西ヨーロッパの哲学的言論を構築する不可欠の語彙となった。体系的に解釈されたアリストテレス哲学が、十五世紀までの哲学研究の主流であったことから、それらの語彙は西ヨーロッパの哲学的言論がアリストテレス研究から離れていった後でも、基本的なものとして利用され続けていくのである。
アリストテレス哲学に由来する術語体系は、西ヨーロッパが、アリストテレス哲学とは異なった原理を選択し、アリストテレスが論じたこと以外の哲学的主題を探求するようになって、今日知られるように多様な哲学的言論を生み出していくときも、利用され続けていく。しかもその場合、そこで用語内容の拡張や、再編成がなされたわけではないことが多い。哲学的な事柄を言い表す言葉を持っていなかった西ヨーロッパの哲学研究者は、外から学んだ言葉を利用して、彼らが新しく見いだした哲学的な事柄を言い表すために再利用したのである。それは西ヨーロッパ的な新用法である。例えば substantia は、デカルト、ライプニッツにおいても重要な語として使用されるが、それはもはやアリストテレスの substantia ではない。また materia は、自然科学の発展の後 matter、material となって、質料の意味でなく、物質という意味で使用されるようになる。ちなみにこの新用法という言語現象は、アリストテレス的用語に限らない。哲学は西ヨーロッパにおいて外来的なものであるから、外来文化に由来する言語表現が、固有の文化の取り込まれたときに新用法を発生させるというよく見られる言語現象は、アリストテレス以外の哲学に由来する言葉においてもしばしば発生する。デカルトの使用以来、近代哲学において重要な概念となる「観念」という意味になる idea の語も、プラトン、アリストテレスに使用された意味でなく、あくまでもデカルトによって始められた新用法と見るべきものなのである。
第九節
形而上学という語の意味を考えるとき、西ヨーロッパの哲学に古代ギリシャ以来だとか、プラトン以来などといった哲学史的伝統や、歴史的に積み重ねられたオルトドキシーの厚みを思い描いて、一から十までその幻影を実像と思いこむと、現実には一度として出現したこともない意味づけを与えてしまうことになる。ポストモダニスムの思想家はこのような形而上学を描き出すのことが多いから、哲学を勉強しようとする人は注意が必要である。そのような形而上学を描き出すことは、かえってそれに対抗しようとする彼ら自身の立場の論述に哲学的な荘厳さをもたらしてくれるものであって、そこで描かれる形而上学は、あくまでも彼らの思想の意義付けを引き立てるのに役立たせようとしてのものに過ぎない。そしてそれは� �辞学的な常套手段のひとつなのである。ポストモダニスムの議論の延長上で、自分の意見を表明しようという人ならば、そこに提出される形而上学というものをうやうやしく丁重に遇して、かつ大胆な批判でおとしめて大向こうを張らねばならないであろう。彼らの思想史的演劇に登場する形而上学は、彼らそれぞれの主張の筋書きにあわせて、それぞれ特徴づけられた役回りを割り当てられている。そんな各種の形而上学のリストをここに作りだす必要を私は今は感じない。それは後回しにしよう。もし知りたい人が居れば、その有名な著述家の饒舌な著作をひもとけば、なによりも手早くすむだろう。
ここではまだまだ述べておきたい留意事項がいくつも残されている。イスラム哲学の内容にもやはり少しは触れたいし、またほとんど言及しなかった新プラトン主義の影響についても確認しなければならない。(だが、イブン・スィーナー、アル・ファラービー、アヴィケンナ、アヴェロエスについて解説もし、プロティノス、ポルピュリオス、イアンブリコス、テオドロス、シュリアノス、プロクロスなどを要領よく整理できたら、と思いはするのだが、残念ながらそんなことを勉強し直していたら、楽しいだろうが、形而上学の語の意味を説明しようという、この文章の目的地にいつになったらいきつけることだろう。)特にこの新プラトン主義は、イスラム逍遙学派におけるアリストテレス解釈に深く浸透したので、イスラ� �から哲学を学んだ西ヨーロッパの哲学にも入り込んだ。アリストテレス主義が西ヨーロッパの哲学にとって、時代を貫く背骨とも基盤とも言える場所に位置し続けるとすれば、新プラトン主義が教える一者から英知的存在がうまれ、さらに魂や宇宙、それにこの地上的自然世界が生み出されてくる流出説的存在論、さらにその一者をめぐる神秘主義的省察は、西ヨーロッパの哲学者たちを引きつける久遠の天界であり、思想的深淵を印象させる響きをもたらすものともなった。
この新プラトン主義という語を眼にしたものは、そこにプラトンの語も含まれていることから、西ヨーロッパには古くからプラトンが語られていたのではないかと想像するかも知れない。しかし新プラトン主義の流れの開始を告げるプロティノスは、プラトンの活動から五百年も後になって生まれた人であり、彼の思想は、プラトンへの尊崇に縁取られてるとはいえ、ベリパトス派、ストア派、グノーシス主義の影響を受けた、いはばヘレニズム思想の洗礼の中で形成されたものである。そしてその彼の思想も、数々の対話篇によって彩られるプラトン哲学がそのまま引き出せるほど、単純なものではないのである。その傍証的な参考にとどまるが、最近岩波ジュニア新書に刊行された澤井繁男『ルネサンス』に、とりあえず流し� �みしたときに見いだした次の一節を引用しておこう。(私はまだこの書を丁寧に読んだわけではありませんが、それでも前半の思想史的記述の部分はとても易しい言葉で、豊富な話題が述べられており、興味ある人には一読を勧めて良いのではないかと感じています。)
「ブルーニやフィチーノたちによって、ギリシャ語原典からプラトンの著作がラテン語に翻訳されて読まれたのは事実です。その影響は甚大でしたが、西欧でのプラトン受容の歴史は一筋縄にはいかないものでした。なぜなら本当の「プラトン」との出会いは実現不可能だったからです。先述の新プラトン主義やその他の古代神学の神秘的要素に翻訳者自身が浸かっていたので、プラトンを「プラトン」として正視できなかったのです。」
真のプラトン理解を妨げた原因に新プラトン主義の影響があると、この一節が述べているのをよく受け止めていただきたい。どうしてそうなったのか、つまり新プラトン主義の哲学が、プラトンが述べていたものとどう異なっているのか、その事情を述べたいところである。だが、先にも言ったように、そんなことをしていたら、形而上学の語そのものを説明するのが先へ先へと遠のいてしまう。だから次回から、形而上学の語の意味するところを、それは西ヨーロッパの哲学受容の事情と、その後の独自の哲学的発展から、広範で一言では言い切れない多義性、あるいは多様な用法があるのだけれど、それでもとにかく包括的に概略を述べてみようと思う。
第十節 五つの基本的用法分類
ではこれから、形而上学の語がどんな内容を意味するのかを述べてみたい。といっても、それを詳細に語ることはきわめて大きな課題である。私が出来ることは、それが使用されるときに含意されている内容に従って区分けされる、基本的な語義分類の枠組みを提示するぐらいであろう。だが形而上学の語を理解するため必要なことは、これで大抵の場合、とりあえず十分であると思われる。この言葉が使用されるとき、その詳細な具体的内容は、その使用者の考えているところに従って与えられるのが実態であって、その著書なり、論文なりでどんな話題を指示して用いられているのかを確認するのが、この語の意味を理解するときには一番確実な方法なのである。
形而上学という語が汎用的な使用をされることから、この語が特定共通の原理と主題、そして探求方法を、どの場合も一貫して保持している見なすならば、それはこの語の意味を理解する道を誤らせることになる。また「学」という文字が名称に含まれていることから、他の「何々学」の場合のように、いかなる著述者の使用においても、特定不変の知識と主張の理論的、方法的体系を含意していると想定することも、この語の意味を理解するときにそれほど有益なことではない。むしろこの想定は個々の著述家が使用しているときの意味を捉えるには、その正確な理解を拒むことがある。この語は西ヨーロッパの人々が各時代に著してきた多種多様な哲学的論述の中で「哲学」という語を使用する時に、その主張者がそれぞれに� �様な立場と原理を自己のものとして採用しているのと同様に、形而上学という語も著述者それぞれ固有の内容を含意するという多様性を有しているからである。もう一度同じことをくり返して言おう。西ヨーロッパがイスラム逍遙学派を通じてアリストテレス哲学を学び、ルネサンスの時期を経て近代以降になると哲学的論述の多様な変容的発展をした結果、その各時代で語られた「哲学」という言葉が多種多様な内容を表示していくのと同様に、形而上学という語も広範な事柄を包括してしまうのである。
もう一度言おう。この形而上学という言葉は、これまで述べてきたように、西ヨーロッパの哲学史著述家によって形成された、特に十九世紀以降になって構築されて、今日の共通的理解となっている哲学史の統一像が、実際の哲学の歴史的経緯をただしく反映しているものでなく、その歴史的散逸、イスラムにおける再展開、西ヨーロッパにおける外来的受容とその後の独自的展開という実態と相違しているために、この現在の哲学史観の枠組みにあわせて統一的に理解しようとすると、思想史的に区分されるべき個々の思想史的状況の中で有していた意味と評価を、実像から修正した形でないと捉えられなくなってしまうのである。
さて、後に考えが進んでいった段階で修正を与えなければならなくなるであろうが、現在のところ私が提示できる形而上学という語の意味内容上の用法区分を列挙してみよう。
ウ アリストテレスの著作『形而上学』の内容
まず第一に置くべきは、アリストテレスの著作『形而上学』の内容をさして用いられる用法である。
この次にはイスラム哲学における意味が見いだされるべきであるが、私にその知識と準備が不足しているので、後の機会あるときに含ませることにする。
エ アリストテレスの著作『形而上学』の内容に加えて、さらに新プラトン主義的流出説に含まれる諸事項をあわせたもの。
西ヨーロッパの中世スコラ哲学によってなされたアリストテレス解釈は、新プラトン主義の流出説的哲学の影響を受けたキリスト教的世界創造者の唯一神神学と、永遠不滅の実体という語が指示するものを(神として)体系の中心におくような仕方で、いつの時代にか折衷された理解に到達していく。(それはトマス以来そうであったと言うべきだろうか、それともルネサンスの新プラトン主義がそれを決定的にしたと言うべきなのか、あるいは啓蒙期や近代以降のスコラ哲学観に逆照射されてそう見なされると言うべきだろうか。)この折衷的理解を反映した形而上学の用法が、西ヨーロッパに出現する。そしてこれが西ヨーロッパ的な用法の基本義である。
オ デカルト、ライプニッツらの新時代的用法
近代哲学は中世のアリストテレス哲学からの離脱を実現していくが、それでも基本的な用語や、論述の方法をそのまま利用し続けていく。形而上学という言葉も、デカルトやライプニッツにおいて、理論的内実において異なるにも関わらず、アリストテレスが形而上学を第一哲学と呼んだことを踏まえて転用される。この推移的転用の結果、形而上学の語は、近代哲学以降に取り扱われる諸問題を取り込んでいく。
カ カントの体系的変革における用法
アリストテレスの学問分類からすれば、形而上学はそれ固有の事柄を自己の領域としていなけばならない。例えば倫理学(道徳)と形而上学とは、そこにおいて論ぜられる事柄が重なることもなく、両者はそれぞれの探求範囲において独立するものである。学問としての射程も目的も、そして解明の限界も相互に干渉しあうものはない。だが我々は不思議なことに、カントにおける道徳の形而上学というこの異様な用法を、あまり違和感なく受け止めてしまっている。我々はこれに対して鈍感であってはならない。ここに鋭敏な哲学的感覚を働かせる必要がある。そのときカントが西ヨーロッパの哲学的言論に加えた、革命的な変革の意味が、また別の面から浮かび上がってくるだろう。
さらに、キ モダニスムの用法、つまり十九世紀以降の思想史的背景で了解されてくる意味、たとえば自然科学の客観的具象的な知に対して、抽象的思弁的知を対照させるという文脈で了解される意味があり、そしてこのモダニスム批判として出現する、ク ポストモダニスムの用法があろう。しかし我々はこのあたりの哲学的言語のインフレーション的複雑化を、そのまま丹念に学び吸収する必要が本当にあるのだろうか。
次回から、この用法区分のそれぞれについて、もう少し詳しく述べていきたい。
第十一節
形而上学の意味を考える際に、まず第一に置くべきとしたアリストテレスの著作『形而上学』の内容をさして用いられる用法について、少し述べてみよう。だがその前に、古代ギリシャ世界からアリストテレス著作が現在に伝えられた来歴を、簡単に確認しておきたい。よく知られているように、「形而上学(タ・メタ・タ・ピュシカ)」とは、アリストテレスの死後大分経過した後に、彼の講義草稿がアンドロニコスによって編纂され、ひとつの著作として発行されたものに対して、その編纂当初アンドロニコス自身によってか、あるいは編纂著作集が流布した後にまた別の人によってか、与えられたものであるからである。(ちなみに「形而上学」という語は、明治時代に井上哲次朗によって、『易教』中にある「形而上」の� �句から取られたものである。おそらくこの字句が、最高至上の原理を指しつつ、かつ「形をもって現れないもの、形という現れの背後にあるもの」と意味できることが、当時の哲学理解から metaphysics に与えられていた、抽象的、思弁的性格をもってこの学を理解する解釈によく沿うと思われたのであろう。)
アリストテレスの著作は、今日には伝わらなかったが、ギリシャ世界には多数のものが流布していた。それらは、おそらくアレクサンドレイア図書館に収蔵されていたと思われるアリストテレス著作を記録した、ヘルミッポスによる著書目録(前200年頃)に従って、百四十三種の書名がディオゲネス・ラエルティオスによって記されている。しかしそこに記される書目は、一部のものを除いて、多くは現在に伝わらない。そしてこの書目中に、「形而上学」の書名は存在しない。
このヘルミッポスの伝える書目とは別に、古代世界はアリストテレスの著作について、ストラボンによって特別な事情を伝えている。それによるとリュケイオンの学頭をついだテオプラストスに託され、アペリコン、スラの手を経て、アリストテレスがリュケイオンで講義草稿として作成したものが図書収集家の蔵書とされたというのである。(このあたりの詳しい話は、日本語では世界の名著「アリストテレス」の解説に、きわめて簡明に述べられているので、興味ある方はそれを参考にされたい。)
この蔵書を紀元前一世紀末、アンドロニコスが編集して、アリストテレス著作集を刊行した。アンドロニコスはその際、「研究内容に即して分類し、その取り扱う主題に関連性のあるものを同じ場所に集める」という方針にしたがった編集を行った。アンドロニコスが編纂発行したこの著作集が、今日我々の眼にするアリストテレスの全集となるものであり、アンドロニコスの編纂のままであるかどうかは不明であるが、その全集としての配列法の方針は彼に始まるものである。論理学を最初におくことも、おそらく彼の方針を受け継いでいる。そして形而上学の書名のギリシャ語「タ・メタ・タ・ピュシカ」という表現は、「自然的なものの後にあるもの」という意味であるが、これもアンドロニコスに始まる配列を前提にして� �はじめて意味あるものとなる。すなわちこの書は、自然学関連の「自然学(タ・ピュシカ)」、「生成消滅論」、「動物誌」、「動物部分論」等の著作の「後に」、それらが学び取られた「後に」学び、考究されるべき事柄と位置づけられるのである。
さて次には、この「形而上学」という著作における内容にどんなものが含まれているか、それを確認しなければならない。しかし、それは「形而上学とは何か」という問いに答えることとなるであろう。だがこの問題はきわめて困難で、一筋縄にはいかないものである。そこでそのためには、改めてこの問題に直接の仕方で、もう少し後になって取り扱いたい。というのも私は、西ヨーロッパで拡張され転用された「形而上学」の意味を、いまひとたびアリストテレスのこの著作が意味しうるものとして理解し直すという可能性を試みたいからである。いまここでは以下のことどもをのみ指摘しておこう。
まずこの「後に」置かれるということは、単なる配列上の順序、しかも編纂者の方針による配列順次を示すに過ぎないというものではない。というのも配列順序以上の意味を有しうることは、アリストテレス自身によって、自然学とは異なった、別個固有の事柄が、自然学的探求とは別に存在すること、しかも「形而上学」の議論においては、論理学、および自然学における考究が既に了解されたものとして言及されていることから、アリストテレス自身の意図に沿うものであると確認できるからである。
それから改めて指摘しておきたいことは、アリストテレスが「形而上学」において、プラトン、およびプラトン派の説くイデアを否定し、それを退けた上で彼の実体論などの諸議論を展開しているということである。今日我々は哲学研究上の普通の表現として、プラトンの形而上学という言い方を、なんの問題もなく、何らか特定の話題を指して用いている。しかもこの話題は、通常イデア、およびイデアの存在領域(イデア界)、そしてイデアが関与する事柄、例えばティマイオスにおけるデーミウールゴスによる宇宙制作論が触れる事柄についてなのである。イデアを退け、それとは別の方向に展開されるはずの「形而上学」が、イデアを認め、その存在に大きな役割を見いだして語られるプラトンの哲学について用いられて� �るのであるから、まったく不自然な表現を我々は哲学研究上用いているのである。しかしここにこそ、西ヨーロッパにおいて転用された「形而上学」の語の理解、あるいは変容された哲学理解の特質が見いだされるのである。
今回私は以上のことを述べて、著作としての「形而上学」の内容にほとんど触れずに終わろう。このような書き方では、期待の当てがはずれたかのように感ずる人が居るかも知れない。しかしその著作におけるさまざまな話題、四原因論、矛盾率、そして中心主題である実体、これらをどのように解するのかという課題に、ひとたびアリストテレスのテキストを読みとりながら自ら関わってみれば、通用される意味での形而上学という語が思い起こさせる話題と事柄が、そこにほとんど含まれていないことに気づいて驚くであろう。定義によって意味される実体、あるいは本質は、そしてまた形相は、個別実体すなわち我々の感覚経験において出会うものどもについて考究されるのであって、科学主義が曲解する形而上学とは、よ� �ど科学主義に入れあげるのでなければ、対応させがたいものであるし、ましてポストモダニスムの哲学史的批判がどこかに拵えあげる形而上学とは、まったく重なるところのない議論なのである。
第十二節
今私の目の前に、仙花紙様の粗悪な質の紙で刷られた一冊の本がある。奥書を見ると、昭和十九年一月十日初版発行、昭和二十一年二月十日再版発行とあるから、太平洋戦争のさなかに干戈の音を離れて、静かに思いをひそめて学究に勉めた人の、ささやかな偉業のひとつとも言えるだろう。この書は生活社という戦時中から戦後の数年間に活動していたと思われる、特に古典ギリシャ・ローマの文学、思想書の原典からの邦語訳を刊行していた出版社によるものである。この出版社による発行書目には、古典として興味深いものや、重要なものが各種見いだされる。戦争中、戦後の多難な時期であったから、計画だけで出版されずに終わったものもあるであろうが、そこに企図され実現したものは、近代日本が古典研究を営む力� �高めて、ギリシャ語・ラテン語文献を直接に対象とすることが出来る水準に達した初期の結実と評しうるであろう。だが戦後の混乱と、学者の世代の隔たりは、これらの成果に別段の評価を与えず、ごく初期の翻訳として言及する以外は、もはや単なる骨董的なものとしてしまっている。まして日本の学者は常に、その時々の西欧の研究水準を見比べながら、というよりは研究動向をそのまま大事と受け取って、現在の研究をおこなうものであるから、古い翻訳などは、言葉遣いだけでなく、その解釈すらも、ただただ時代遅れで興味を持たれないのである。
だが人間の精神的営為としての面白みは、どこかに見いだされるもので、(戦時中にギリシャ語ラテン語文献をこつこつと訳していた人々がいるというだけで愉快ではないか。)私の目の前にある本も、その表題を眺めながら、ふーんと不思議な思いがさせられるのである。そこには白地に(といってももう紙はやけて茶色になっているが)プロクロス『形而上学』五十嵐達六郎訳と文字ばかりが置かれている。原題は STOICEIWSIS QEOLOGIKH であるから、今日では欧米の訳題にならって『神学綱要』として言及される本である。やはり今時の研究者の眼には、初期研究者の知識不足の証としか映らないものであろう。だが形而上学という語の意味を考えてきた私の目には、この訳題の選択にある意味で哲学的理解力の鋭敏さを見いだせるように感ぜられるのである。この私の評価の所以を述べることで、先に提示した形而上学の用法分類中の第二のものについて、いささか解説の糸口になるであろう。
まず、このプロクロスという人について、この訳者が解題中に与えた記述を引用しよう。
「プロクロスはギリシャ哲学史の最後を飾る思想家であった。彼は西紀四一〇年にコンスタンチノポリスで生れ、アレクサンドリアでオリュンピオドロスの導きのもとに哲学を始め、次いでアテナェで老プルータルコスやシュリアノスにつき、プラトーン、アリストテレースに関し徹底的な知識を獲得したのであった。プロクロスはその思想の系譜からいえば、プロティノスの流れを汲み、特にヤンブリコスに影響せられるところ極めて大であって、新プラトーン派さらにはアテナェ派に属している。「継承者プロクロス」の名が示す如くアテナェに於けるプラトーン哲学の公認の教授として多年活動した。世を去ったのは四八五年、その七十五歳のときであった。伝えるところによれば、彼は種々奇蹟を働き、暑熱を和げ雨を降� �せ地震を静め或いは病を癒し見神したといわれるが、これと同時に彼は該博な知識の学者であり思弁的な人であって、多くの著作を残しているのである。」
これに続いてプロクロスの著作についての紹介がある。それらは省いて、その最後の総評と訳出の理由についての一文を、さらに引用しておこう。
「プロクロスの著作のうちに見いだされるものは、体験の深さよりは論理の鋭さである。思索の独創よりは組織の整合である。すなわち彼の著作乃至思想がすでに註釈的な傾向を帯び、形式的な、古代のスコラ学者と呼ばれるが如き叙述が見出されるのである。プロティノスに於けるデーモニッシュなものが消え去った感のあるのも、継承者に免れ難い運命であろうか。この訳業を上辞するのは、プロクロスが古代と中世をつなぐ橋であり、この書が新プラトーン派の思想の簡潔な体系的叙述であって、難解なプロティノスへの導きをなすと考えたからである。」
プロクロスの生涯、思想について日本語で手頃な解説には、世界の名著『プロティノス・ポルピュリオス・プロクロス』の中にある「新プラトン主義の成立と展開」がある。参照されたい。そして上のプロクロス哲学の総評的理解を補足して、この「新プラトン主義の成立と展開」から次の一文を引こう。
「プラトン的ないし新プラトン派的思想の伝達者として、また古代的思考法と中世的思考法の媒介者として、プロクロスの果たした役割は非常に大きい。その影響は、西欧とビザンティンのみならず、アラビア世界にまで達している。」
引用しながら、やはりこの記述に私は不満足を覚えてしまう。「アラビア世界にまで達している」とついでのように書き足しているが、歴史的な順序からいえば、イスラム哲学に於けるプロクロスの影響があったからこそ、中世西ヨーロッパにも彼の影響が及んだのである。「古代的思考法と中世的思考法の媒介者」と書くとき、そこにはイスラム哲学の存在がまったく顧みられていない。しかも「古代的思考法」とは一体どんな思考法のことであろうか。私には、知識不足であるのか、思い浮かばない。明瞭であるのはプロクロスによって「新プラトン派的思想の伝達」が生じたということだけである。そしてこの点において、プロクロスの哲学史上の重要性が与えられるのである。つづく
BACK研幾堂 2002. 3. 19.
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